「まだ生きている」 06.01.22
使徒 20:1〜12
礼拝において、私たちは神さまの恵みの御手に包み込まれます。
そんな礼拝の時を持ってから、一週間の歩みを始められることは、
真に幸せなことです
本日の聖書の場面には、日曜日の夜の礼拝の様子が描かれています。
そこに参加していたエウティコという青年が、居眠りをして3階の窓から
落下し、死んだというのです。しかし、パウロからの「まだ生きている」との
言葉を受けると、生き返ったのでした。
この礼拝は、夜に行われていました。当時は、日曜日が休みと決まって
いたのではありませんから、昼間も次の日も、それぞれに仕事があります。
その日の労働を終え、次の日の労働に備えて休息する時間に、礼拝の
ためにそこに集っていたのです。真剣に、熱心に礼拝を守っていた青年の
姿です。彼が窓際に座っていたのは、外の空気を吸って、眠気と戦って
いたからではないかと想像されます。
この青年の姿を、あらためて心にとめておくべきでしょう。礼拝は、休日で
時間があるから守るものではないのです。時間のない中で眠る時間を
さいて、肉体の疲れを覚えながらも、人々は礼拝を守り続けたのです。
そのような礼拝が数百年続けられた後に、ようやく日曜日が休日に
なったのです。
そうまでして礼拝を守るのは、どうしてでしょうか。そこに喜びがあった
からです。礼拝では、青年エウティコだけでなく、死んだ者が生き返る
ことが起こります。礼拝で、イエスさまの言葉を聞き、救いの宣言を
受けます。罪の赦し、永遠の命を与えられている幸いの宣言を受けます。
「騒ぐな、まだ生きている」との言葉が届けられるのです。
イエスさまからの「十字架に死んで罪を取り除いてあなたに新しい
命を与えた。あなたは死んでいない。私によってあなたは生きる!」
との宣言を受けるのです。 それによって、私たちは生き返らせて
いただきます。
生かされるエウティコの姿は、礼拝に集う私たち一人ひとりの
姿でもあります。